| ここは東大寺の北西にあたり現在若草中学校の敷地になっています。高台からは、東大寺、二月堂、若草山が一望でき、こんな近く見渡せる場所があった事に驚きます。実はこの場所にはかつて多聞城という立派なお城があったのですが、奈良の人はおろか、地元の人さえも知らない人が多いようです。 実際お城のあった痕跡は何ひとつないのですが、山を削って作ったというのは地形からなんとなくわかります。おそらく、京都と奈良を結ぶ街道沿いを見渡せるこの場所は、戦略的にお城を建てるのにふさわしかったのでしょう。 |
| ここに多聞城があった事を認識してもらう為、夏に階段に水の入ったコップにロウソクを浮かべお城の形に並べ、火を灯し一夜だけ幻の城をよみがえらせるイベント「幻燈会」が1999年から開催されています。このコップを並べるのが結構大変で、毎年写真を撮影して緻密に並べているのだとか。漢字で「多聞」と書いていた年もあったようですが、現在はアルファベット表記になっています。 |
| 多聞城は四天王の一つ多聞天を祀っていたことから名付けられました。戦国時代、大和一円を支配しようとした松永久秀が1560年に築いたお城で、日本初の四層の櫓を持つお城として知られていました。多聞櫓とよばれる構造はここからきています。そのお城はすばらしく1565年にポルトガルの宣教師で訪れたアルメイダが「天国にはいったような感じがする。世界中でこのような美麗な建物がほかにあるとは思われない」と報告しています。 |
| ではそのお城を建てた松永久秀はどういう人物だったかというと、信長にも認められる程若き頃より知略に長けていて下剋上によりのし上がってきた事、有名な茶人であったことが知られていますが、それよりも東大寺を焼き討ちにして大仏さんの首を落とした張本人であるということで、悪人のイメージが強いようです。 後に久秀は信長に反逆し敗れ、自爆という最後を遂げます。謀反人であることから資料も少なく 謎も多いのですが、ある意味、芸術家で自分の生き方を貫いた人物だったのではないでしょうか。 |
| 信長は、多聞城をまねて安土城を作ったとされています。安土城の完成と共に自分の城の素晴らしさを一番する為に、目障りな多聞城を破壊してしまいます。石垣も大和郡山城に城築に使われてしまい何もなくなりました。多聞城は創建からわずか15年という短い期間だけ存在した幻の城だったのです。 この幻燈会のイベントで、主催者から松永久秀の説明がされ、ここに多聞城というお城があった事を知ってくださいと話されていました。闇夜に浮かび上がるこのお城を見ながら、実際の多聞城はどんなのだったか少し興味がわいてきました。どこかから資料でもでてこないでしょうか。 |
